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T氏の話   

2004年 03月 14日

T氏の話_a0002942_17156.jpgあれから4年も経つが、忘れられない出来事がある。

何かの用事で先でふらりと入った喫茶店だったが、ジャズ好きなマスターがやっている、所狭しとレコードを壁中に詰め込んだこじんまりとしたいい感じの店である。
時間帯のせいか客もまばらだったが、ジャズをまったく知らない私に話しかけてきたのがT氏だった。常連らしく、ジャズが何よりも好きな人で、決して大きくはない静かな低い声で話すのだが、妙に耳に残るような話し方をする。
そろそろ帰ろうと席を立つと、氏はよかったら聴いてごらんと、マスターに貸して返ってきたばかりのCDを貸してくれた。

店を出て扉が閉まる音を聞いた時、私は氏の顔を思い出せないことに気がついた。手や爪の形、着ていたジャケットの布目、そんなことばかり思い出せるが、どんなにT氏の顔を思い浮かべようとしてもうまく思い浮かべられない。振り返ってもう一度店に戻ろうかと思ったが、迷った末にそのまま帰った。

後日、CDを返しに再びあの店を訪れたが、マスターの話ではT氏はあの日の夕方、交通事故で亡くなったそうだ。瞬間、T氏の顔が鮮やかによみがえる。線が細く、思慮深げな眼差しの人で、ジャズは天上の音楽だと穏やかに笑っていた。どうして今まで顔を思い浮かべられなかったのか不思議なくらい、氏の姿はとても鮮明だった。

その後、どうやって帰ったのかほとんど覚えていない。
頭がガンガンして気分が悪い。しばらくベットの上に倒れ込んでいた私は、頭痛がおさまってからダビングしたCDをかけた。部屋の中が音楽で満たされる。むこうで今頃、天上のジャズをT氏は聞いているんだろうか。そう思ったら、世界が滲んでぼやけた。

もうじき今年もT氏の命日がやってくる。

by cafe_europa | 2004-03-14 13:17 | think

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